9年前の今日、私は都内某所で在宅勤務をしていました。
ほっぺもちもちボーイは保育園。
かつてない大きな揺れを感じ、しかもその揺れが思ったより長く続いていることに気づいた私は、机の下に隠れながら、視線を右に左に走らせ、決断を迫られていました。
左には、買ったばかりの大型プラズマテレビ。ぐわんぐわん揺れています。倒れたら私では起こせませんし、壊れたらこの未曾有の揺れに関するテレビからの情報が得られなくなります。
右には、当時夫が大事にしていた小型水槽。今にも水がこぼれんばかりにばっちゃんばっちゃんしています。生体は小魚がいるだけですが、中身は海水だったので、割れたり水が溢れたりしたら周辺の機械やフローリングへの被害が甚大です。
いずれかを支えにいくか、それともこのまま机の下で身を守るか。
そこからは、色々な決断の連続だった覚えがあります。
ネットワーク回線はつながったままだが、業務を続けるべきかどうか。*1
すぐに保育園に子供を迎えにいくかどうか。*2
ひとまず外に出てみたら、近所の中学生くらいの姉弟が「パパもママもいない、家がこわい、どうしよう」と半泣きで聞いてきたが、なんて答えるか。*3
あの夜、東京の多くの社会人がそうだったように、夫も帰宅できませんでした。余震の心配がある中で、自分とボーイは、古い鉄筋コンクリートのマンションで過ごすべきか、それとも木造の実家で両親と過ごすか。*4
このまま日本にいて良いのか。
あの時、震災の数日後には有楽町某所に子供を連れて行ったわけですが、結局のところ、日本に残ってよかったと感じています。治安や医療制度などを考えても、子供を育てるのに日本は一番安全な国だからです。
新型コロナウィルスの一件を見ていても、なんだかんだ日本の皆さんはマスクをつけて、手を洗って、普通に過ごしている。トイペを買い占めるのに整然と列を作ってお金を払いますし、マスクが売ってなかったからといって暴動を起こしたりもしません。
パワー系老害が感染してるのにジムだのバーだの行って騒がれていますが、「どうせ俺はコロナで死ぬんだ」とか言って銃を乱射するほどのパワーではないので、同じ街に感染者がいるとわかっていても普通に外に買い物にも出られます。
外国人がよってたかって殴られることもなく、戦車が道を封鎖することもありません。政府のやり方にtwitter等で不満の声をあげても、おっと誰か訪ねてきたといったことはありません。*5
なんの話かよくわからなくなってきましたが、来年のいまごろはきっと色々落ちついて(中学受験生も終わって)、東北に旅行に行って、パーっと楽しく過ごしたいなぁと願います!
*1:免震高層ビル上層階の職場の人々の方が地震酔いで業務にならなさそうだったので、しばらくチャットで職場と情報共有しながら、業務を続けました
*2:1987年のロサンゼルスの地震があったとき、私は登校途中の道路で被災しました。電線が弾けて落ち、家のブロック塀も崩れてきました。その時の教訓から、少し状況がわかるまでは外を移動するのはよくないと思い、保育園の状況を電話で確認だけして、数時間預かってもらえるようにお願いしました。当時は丈夫な鉄筋コンクリートのマンションに住んでいましたし、保育園も頑丈な建物です。下手に外に出るよりも安全でした。
*3:できるだけ家の中の安全な場所で過ごし、大きい余震が来て怖かったら二人一緒に小学校に避難してねと無難な受け答えをしました。さすがによそのお子さんを自宅で預かるまではできなかった(;´Д`)
*4:これから何があるかわからない中、幼児を守るには人手は多い方が良いと思い、実家に行きました
*5:大連の同僚は、社内VPN内のチャットでそっと大変さを漏らしてくれます